10月15日
知人の命日だ。とんぼという、あだ名がなぜかついていた。
私が高校生の時だったな。
小さいころから、よく遊んでくれたし、
弟と遊びに行った。
彼の部屋は不思議な物で溢れていて
魅力的だったな。
高2の今日、式根島で釣りをしていて
波にさらわれて出てこない・・・第一報はそうだった。
その日は、一晩じゅう眠れず布団をかぶって過ごしたことを
忘れることは出来ない。
翌朝、ダイバーたちが探してくれ、
チャーターしたヘリで帰宅。
とんぼ兄ちゃんのおねえさんは、
20歳位で病気で、若くして亡くなっていて、
みっちゃんというのだけど、あこ、あこ・・・
いまでも声が聞こえるくらい優しい声で呼んでくれて
遊んでくれ、楽しかったのを覚えている。
みっちゃんがなくなったとき、私は4歳位だったろうか、
母が顔をみせたくなかったのに、
出棺のときに、アッとういう間に近づいて
狂ったように泣き叫ぶ私の声で、
気がつけば、私がみっちゃんのそばにいたらしい。
泣いたのも、近づいたのも、よくおぼえていないけれど、
私の記憶のはじまりは真っ白な大輪菊とみっちゃんだ。
最後に会話をしたのは、
入院先で、手毬をつくっていて、その手つきにジィーっと見入っていたら
あこもほしい?
なんだかしらないけど、
首を横に振って、断った記憶。
断る理由は、自分でもわからないことが、いまも記憶にある。
もうお話することのないみっちゃんをみて
毬・・・やっぱりほしかったな・・・・あのとき、ほしいって言えばよかった。
この記憶もなぜだか、覚えている。
後のことはまるで覚えていない。
かくして、その一回りほどの時が流れて、
みっちゃんの2番目の弟のけいちゃんがみっちゃんのところに逝くとは・・・
翌朝、母が私にこう言った。
貴女はお通夜もお葬式もいかない方が
ママは良いと思う。
ずっと海の中だったから、顔が変わりすぎていて・・・
貴女は会わない方がいい。
彼は、1ヶ月前、うちにやってきて
網戸の網を張りに来てくれた。器用なのだ。
その時会った、とんぼのままでいなさい
父がいう。
その数ヶ月後、とんぼ兄ちゃんの遺品がとんぼママから、
よかったら使ってと弟と私あてに送られてきた。
沢山の洋服とかっこいい自転車。
長い年月を経て、Tシャツはきて
ついに着ふるしきったし、
弟は、図書館で盗まれてしまい出てこなかった。
いま思えば、たとえ、どんなつらくても、
のりこえなければいけない、いくつかの壁があるとしたら、
どんなお姿になってようと
お別れはしなくては、いけなかったと思っている。
確かに、ふだん親にさからってばかりの私が
結局逃げ腰だったのだ。
なぜ、行けるから大丈夫だと、言えなかったのだろう
と当時の自分の勇気のなさ
結局、40歳すぎた今でもお別れできなかったこと。
あんなに遊んでもらい。
遺品をフル活用させてもらったのに、
私が後悔していることの一つ。
人との別れは、けじめが大事だ。
自分の心ばかりを、大事にするのはもってのほかなんだよね
その人の人生に敬意を表することは
お別れを、きちんとできて、ピリオドマークが打てる。
私のそこの部分は・・・・・のままなのだ
そう、もう31年前の出来事・・・古い話だ。
でも、心にひっかかっている数少ないことのひとつ。
海は好きだけれど、
式根島には、あまり行きたくないし
これからもいかない気がする。
きちんとピリオドをうたないから、こうことになるんだよね。