一月二十三日
カール・ユーハイム&エリーゼ・ユーハイム
私の大好きな洋菓子それはバウムクーヘン
和菓子はどら焼き
ともに粉ないと作れない菓子だ。
この水曜・自宅の机で仕事をしていたら、夫がつけっぱなしにしていた
テレビのBS2から耳の飛び込んできらバウムクーヘン
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ユーハイムのカットされたバウムクーヘンが好きで
昔は新宿と、かつて住んでいた大泉学園の駅前にあったので
よく、仕事の帰り道、自宅や職場におみやげに買っていた。
子どものころ、親戚のおばさんが、買ってきてくれるユーハイムの
バームクーヘンの詰めあわせに、弟と競争で食べた。
そのまま食べたり、輪をはがしつつ食べた
楽しみだった。
幼稚園のころ西友で、激しくジャンクな四角いバサバサしたキャンディー形に
包まれたバウムクーヘンですら、あの年輪層さえあれば、買ってもらった。
んーあの箱にはいったのより美味しくないなーと
思いながら、食べていた。
料理の世界に飛び込んで1年めのとき、バウムクーヘンの作り方を教わった。
卵6個も使って、こんな小さいものしか作れないことに驚いた。
結構時間がかかること、適当にやるとカットした時に、断面層が美しくなくなる。
家庭で作れるバウムなので、フライパンで焼いていくため、形は丸くなく
高さを作り上げていくバウムだったが、それ以外は忠実な作り方を教わった。
その大好きなバウムクーヘンの物語をNHKで放送していたのだ。
めったに私は泣いたことがないのが、子どものころからの自慢だ。
ところが、この番組やってくれてしまったのだ。
ユーハイムの創始者
カール・ユーハイムとエリーゼ・ユーハイム夫妻
この物語はあまりに長くて
ここには書けないけど、第1次世界大戦・関東大震災・第2次世界大戦の
被害者そのものだといいうことも驚いたし、
日本人が捕虜として、カール氏は日本に連行されたところから
バウムクーヘンの物語は始まる。
ドイツでも優秀なバウムクーヘンの職人だったカール氏
その後もめげることなく、日本という土地で不死身のように、
何度も立ち上がり、最後は神戸でバウムクーヘンの店を開くことになる。
皮肉にも終戦の前日、8月14日に亡くなっていたという
悲しい運命は、神様のあまりに、間違ったコントロールミスだ。
戦後の日本で、日本の子どもたちがこんな喜んで
バウムを食べる様子を見守ってほしかった。
この夫妻がいなければ、バウムクーヘンの広がりはティラミスなみに
もっと後だったかもしれない。
また、強制連行されていなければ、バウムクーヘン誕生は皮肉にも
これもなかったことかもしれない。
まるで平和のシンボルのようなバウムクーヘン。
この美味しさの中には彼らの歩んだ歴史と悲劇がそして、
けっして屈することのなかった職人魂と正直なものを、
みんなが買える値段で売る。
商売の鏡みたいな彼らの愛情をかみしめたい。
最後疎開先の六甲で亡くなり、そのあと奥様のエリーゼが菓子やを広げ
いまは芦屋の墓地にご夫妻で眠っているという。
その発祥の土地に、本店に行かないと・・・・
私たちの世代は戦争で負けた日本の悲劇しか、
学校の社会の授業では、教えられていない。
でも、ドイツ人も日本で強制的に働かせられていた。
カール氏。
たら・ればは禁物だが、戦争さえなければ・・・・・・
私の叔父も、また、シベリアで捕虜として2年いた。
何年も語らなかったけど、数年前に、新聞に掲載され、
連載で書き、評判になっていたが、いつも行くと、ニコニコした
小柄で温厚なその叔父の捕虜時代の過去は、活字をとおして
読んだのだが、何十年も語れなかった叔父のことを考えると、ショックだった。
食に携わる人間のひとりとして、
平和なくして食を語れず。
これを強く感じたから、放送後いろんな思いが複雑に絡み
涙が止まらなくなってしまった。
余りのコーフンぶりに夫は、
よくテレビみて、朝から泣けるなーと
半ばあきれていた・・・・笑。
さて、今日は、神様が出した命令
神戸元町・本店に行きなさい
ユーハイム本店の2階で、バウムクーヘンを食べるんだ。
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