セニョリータ・・・?!

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10月2日(土)

小学校からの友人が

3年間もほぼ、毎日ブログをつづっている影響もあり

書き始めたが、

1年続けられた

まーこれは、あまり私の職業とは

関係のないところで、お気軽にぼやこうかな・・・・

と、おもい

仕事ネームはさけて、あえて、

おばちゃん化してみた。

 

今朝、そうだそうだ・・・と

まとめ読みする、トモエちゃんのブログを覗くと、

なんと、今日、ブログ先をお引っ越ししていた。

 

祝メッセージを入れておいたら、すぐに返事がきた。

アンテナみたいな彼女は、昔から、いろんな情報を、手に入れ

即行動する人。いまじゃ、どの子も受験受験と騒いでいたが、

その頃の子供の一部は、塾も行かずに

もちろん、私もトモエチャンも、中学2年生まで、

毎日のように、私もともえちゃんも遊び呆けていた。

 

中学2年というのは、中3で受験だからではなく

お父さんの転勤だ。

離れ離れになっても、茨城から出てきて、

都内で、興味の探訪をした。

 

子供だけではいってはいけません!

そんなところも2人でうろついた。

渋谷・新宿、原宿。

 

クレープなんぞ、今や当たりまえの、おやつでストリートケーキだけれど、

クレープは私の記憶だと、私たちが中学2年か3年、

そう、今から33年か34年前に

原宿でおいしいクレープの喫茶店がある

そんな情報をまた、ともえちゃんがゲット。

 

二人で田端の駅で、待ち合わせ

今から思えば中学生の入るような喫茶店では

なかった、いわゆる大人の喫茶。

 

ドキドキしながら、

表参道を下り、地図のとおり右の地下の喫茶

 

その当時のクレープは

3枚ほど、うす〜く、ひらひらとレースのように焼いた

クレープが大きい皿に、重ねてある

真ん中にバニラアイスが

のっかり、、、、、周りにフルーツ。

 

おごそかに、ナイフ&ホークで

カットして、アイスとクリームと、フルーツを巻いて

パクリと淑女のように気品高く食べなければ

いけないシロモノ。

 

その後原宿は、不思議な発展を遂げたが、

このころは、完全なる大人の町だった。

ただし、このクレープを食べた頃、この大人の町に

異質なビルが出来た。・・・それがサンリオのキティランドなるビル。

 

今や古めかしいビルのひとつだが、

まあ、このあたりが原宿をかえてしまったのではないか・・・とおもう。

あの時の喫茶店の店長さんも

なまいきな私たちのような客を

そう、快くはおもってないとおもうけれど、

その後の原宿の若者のカラーから比べれば、

私とともえちゃんは、実に誠実なかわいらしい客だよなー

なんて、自分でいったりして。

 

私らは、食いしん坊だったので

べつに気取るものばかり、食べていたのではなく、

聞いたことのない、食べたことのないものを

ほっとくわけにはいかなかった。

 

そういえば、彼女は放送することが好きで

二人で小学校の頃、

放送委員を積極的に、やった記憶もあるなあ。

レコードをかけたり、朗読をしたり、

子供のやることといえ、

そのころの彼女の夢が、そのまま職業になるのだから、

小学生の夢は侮れないぞ・・・・

 

話をもどすが、今でこそモツなんてあたりまえだが、

家庭の中にはモツなんてものはなく

小学生の私たちには、実に興味ぶかいもの。

二人である日、おじさんが立ち呑みをする

カウンター赤ちょうちんに行き、1本50円の

シロモツを買って、おやつに買って食べたりもした。

ミニおやじだ。

 

東京はソースのタコ焼きが主流。

ある日、ソースのないタコ焼きが新宿に出来た

それだけの、情報で2人は歌舞伎町へ。

今でいう、明石焼き。

卵色した丸くふくらんだタコ焼きが板の上にのり

小さい器にだしと三つ葉みたいなもんが・・・

たこ焼きを出し汁に付けて食べる

その食べ方が分からず、まずパクリと卵焼きのような

たこ焼きを食べ、

吸い物だわと思い込み、そのつゆをのんだ。

わっ、しょっぱいねー

 

私たちは、ホカホカのたこ焼きを8個食べて

吸い物は残した。

帰り道、二人で、

なんだか、よくわかんないねー、ソースの方がすきかなーーと

ともえちゃんは、茨城へ。

私はそのまま、自宅にかえった。

その後、たこ焼きを、だしに入れて、箸でわり、

お出しを吸わせて食べる、明石のタコ焼き・・・と言うことを

料理の世界に入ってから知ったとき、思わず

あの時のことを思いだして、

爆笑してしまった。知らないって、怖いわ。

 

歌舞伎町は、昔も今も、子供だけでは、行ってはいはいけないとこ。

そういう、行動はふたりとも隠していた。

おそらく、今も、2人の母はそのことを知らないと思うな・・・笑。

 

そんな行動をしているからか

娘が中学2年の頃

試験のあと、○○ちゃんとあそんでいい?

と、きいてきたとき、なんとなく、母の勘で

 

原宿だったら、だめだよ・・・・

 

と、言ってみたら、図星だったらしく

アヤの顔が固まっていたのが、

いまでも、思い出すと笑える。

 

トモエちゃんも、フジテレビのアナウンサーを

退職して、フリーになって、もう長い。

フジ時代、御巣鷹山の飛行機事故の現場も行っていたな

現場アナウンサーの過酷なライフスタイルも

話できいてきた。

子供を、産むのが一番早かった。

あのころのアナウンサーでは、めずらしく、ものすごいデカイ腹のまま

司会をしていたな。

 

彼女がフジのアナウンサー時代、

聞いたことがあるのは、

たかがアナウンサー、されどアナウンサー、司会進行まとめ役

絶対にタレントになってはいけない。

分からないこと・知らないことを女子アナだからと

自慢しちゃあ、いけないんだ

 

と、あっけらかんとした

性格とは裏腹に、努力家だ。

 

彼女のブログをよんで、たまに、

優雅な生活だよね・・・・そんなことを言う

クラスメイトもいるけど、

けっして、そんなことはない。。。

仕事をまっとうにこなすため、子供たちのために

努力をして、苦労もしている。

 

えっと、おもうような、留守番もさせたよ

と、あっけかんと電話のむこうでわらっていた

子育て期を思い出す。

 

子育てと仕事の両立は私より先輩。

見習わなくちゃ・・・・

いままでは、シャンとしよ!という、ブログ名だったけれど、

今日から、少々不可解だけれど、

 

トモエスタ セニョリータ! 
http://ameblo.jp/tprojectomoe/

とタイトルも変えた。

たまにしか、会えない親友も、がんばってるのだ。

でも、こうやって、互いのブログで

お互い元気を確かめあえるのも現代だな・・・とつくづくおもう。 

 

 

 

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